生存記録

食べたものや日記を書いています

調子が悪いのでなぜ自分がブログを書くのか書いていく

調子が悪い。季節の変わり目だからだろうと思う。エアコンはどの温度にしても落ち着かないし、胃が冷たいものを受け付けなくなっている気がする。

というわけで動きが緩慢な中、なぜ自分がブログを書くのか書いてみる。

①やりきれない気持ちがある

やってらんね〜、もう知らね〜、と言いたくなることが山のようにある。多分これを読んでいる人にもあると思う。

最近だと処理水問題。海に流す以外の方法をもっと検討してほしかった。何十年も何百年も経ってから、その世代を苦しめることになるかもしれない。

ジャニーズ問題。もう被害者にこれ以上嫌な思いをしてほしくない。ジャニーズを去った人はもちろん、ジャニーズで成功した人も昔のことを思い出して辛くなるんじゃないかな。みんな納得できる方法があるのか正直わからない。これを機会に弱者を搾取する構造が消えてほしいけれど、どうなるだろう。

首相が「女性ならではの感性で」とか言っているらしい。男性ならでは、老人ならではの感性を発揮された発言で、もう退場いただきたい限りなのだけれど、もう怒りというか呆れしか出てこない。官僚って勉強とかしないのかな?

こんな感じでおいおいおいおいみたいなことが積み重なってやりきれなくなる。積み重なって自分の中でヘドロになっていく。ヘドロを分解して文字にして整理したのがブログになっている気がする。だから精製された綺麗の水のように整然とした文章にはならないし、でも自分なりに分解しているから最低限読めるものにはなっていると思う。

SNSでもこういう文字が流れていると思う。みんな心に沈殿したヘドロを分解して文字にしている。けれどブログはもうちょっとその分解度合いが強いというか、長く書けるし、他者に読まれることはもちろん自分のために書かれる側面もある気がする。

②遺書の代わり

誰だったか、自分が死んだあと子供たちに遺書代わりに読んでほしいと言っていた。自分が何を考えていたか知ってほしいらしい。私は子供もいないし、知り合いに読んでほしいとはそこまで強く思わないけれど、今を生きている知らない人や、数十年後を生きる人達が面白半分でも読んでくれるとありがたい。誰かの考えに触れることで自分の考えが具体化されることはよくある。

いつだったか、原因不明の体調不良で死ぬかもしれないと思ったときがある。その時私は日記を書いていた。人間、死を意識すると遺書を残したくなるのかもしれない。ちなみに法的に正当な遺書を残す方法はその時ちゃんと調べたけれど、大した資産もないことを思い出したので諦めた。

③時間がある

リストラされて無職で、日々特に何も残していないから残したくなったというのがある。

こうやって書き出してみるとブログを書く理由ってそんなに明るくない。まあ、毎日楽しくて大した悩みもない人間が熱心にブログを書いている姿なんて想像がつかないものね。でも、たまに料理や投資をテーマにこつこつと記事を書いている人を見かけると何か尊いものを感じる。遠くから見ています。