生存記録

食べたものや日記を書いています

3月11日 みんなあのとき何してましたか

あの日、私は17階建ての免震ビルの12階にいた。免震ビルであることが幸いしたのか災いしたのか、12階は立っていられないほど揺れて、デスクの下に逃げても「このままでは圧死するかもしれない」と思った。揺れが収まって窓の外を見るとお台場のほうでビルから煙が出ているのが見えた。

テレビを見て絶句した。そして電話が途切れやすい中でもなんとか業務のメールをやりとりした。余震が絶え間なく発生し、気づいたら夜になっていた。その日、私は合コンに行く予定だったので綺麗で足に慣れないパンプスを履いていた。このままじゃ避難もできないということで、合コンに一緒に行く予定だった同僚と近場のショッピングセンターまで歩いていった。エレベーターは止まっているのでもちろん徒歩で。

ショッピングセンターは電気が消えており、自転車屋には長蛇の列ができていた。みんな自転車に乗って帰るつもりなんだろうけれど、私は余震が怖くて会社に残ることにした。靴屋でスニーカーを買うとき、店員のお兄さんが「ご家族、大丈夫ですか」と声をかけてくれた。ちょっと泣きそうになった(家族は無事だった)。靴を買ったあとに、会社に泊まるためのタオルや下着を買い込み、同僚と担々麺を食べた。あの状況下で店を営業していたすべての人に感謝したし、今でも思い出すたびに感謝している。

会社に戻り、会議室のひとつを女性専用の部屋にして、着替えて横になった。会社は夜になるとエアコンがきれてしまうので、コートにくるまった。寝ようとしても余震でぐらぐらと揺れるのでほとんど眠れずに朝を迎えた。

翌朝、電車が動いていたので帰宅した。母が青ざめた顔で「原発が……」とつぶやいていた。私が生まれた1986年はチェルノブイリ原発事故があり、放射線が偏西風で流れるからヨーロッパの乳製品を食べてはいけなかったのだと母が言っていた。福島は一体どうなってしまうんだろうと思いながら、私は自分のベッドで眠った。

あのとき、恐怖の中で仕事を全うしてくれた大勢の人に何度もありがとうと伝えたい。今も避難生活をしている人、そして能登半島地震で避難生活をしている人たちも、少しでも穏やかな日々を手に入れてほしい。日本よ、万博なんてやってる場合ではないのでは。